エピステモロジーとはなにか、とりわけフランス哲学において、という論題はつねに、エピステモロジー研究者のあいだで話題に上がり続けてきた。おおよそのところ、フランスのある時期から哲学の一角を占めるようになった、科学と科学者のテキストに向き合う哲学のひとつのスタイルであるとまとめることはできる。代表的であり、かつ日本でもその多くの著作が翻訳されているものとしては、ガストン・バシュラールの哲学とジョルジュ・カンギレムの哲学がある。しかし、彼らの仕事を科学史というよりもやはり哲学として読むというところに、エピステモロジーの哲学としての特異な共感性があるように思われるのだが、しかしこれがいったいなんであるのかということについては、いまだ完全な合意や十全な定式化に至ったことはないように思われる。このような曖昧さ(科学とその歴史を扱っているにもかかわらず)こそがエピステモロジーを特徴づけ、かつ明瞭な境界を持つように思われる新カント派や現象学とは異なるところであるように思われる(つまり中心的教義がないのだ)。エピステモローグにとって、何がエピステモロジーであるべきかという問いそれ自体が、恰好の議論のネタであり続けてきたといってもよいかもしれない。エピステモロジーはその境界それ自体の現在的な問い直しを常に含んでいる。したがって、ここでは、まさにエピステモロジーの流儀に倣って、何がエピステモロジーであるのかということを規定する中心的教義を整えるのではなく、かえってその歴史を深く掘り下げていくことで、その境界をいっそう曖昧なものにしていこう。むしろその作業は、〈現在〉において(この記号は、まさに浮遊するシニフィアンのように機能するわけだが)、なにがエピステモロジーであるべきなのかということを常に問い返すことを促すものとなるだろう。
半過去
ここでいう「半過去」とは、ようするに現在にまで影響関係が続いている過去をあらわすフランス語文法用語からの借用だが、ここではエピステモロジーのアイデンティティを最も表していると考えられる少し前の過去について概要を論じたい。とりわけ第二次世界大戦後にフランスでエピステモロジーという分野として考えられるのは、おおよそガストン・バシュラールとジョルジュ・カンギレムの仕事の全体の時期と一致している。すなわち、1920年代から1980年代にかけてのおおよそ半世紀が、エピステモロジーの半過去を形成するものと考えられる。必ずしも偶然とは言えないかもしれないが、カンギレムの生没年に挟まれた時期(1904-1995)がおおよそ、この半過去の時期と一致している。ある意味で、カンギレム以後がエピステモロジーの現在を形成し、バシュラールの仕事以前がエピステモロジー以前を形成すると言っても過言ではない。しかし、後に見るように、このような象徴化はあくまでも偶然と必然の入り混じった結果にすぎず、象徴以上の意味はないように思われる。
半過去といってもすでに述べたように約半世紀の時間がかかわっている。そこで半ば恣意的ではあるが、第二次世界大戦終結をひとつの契機として、1945年前後を境にしてまず第一部とし、その後、1968年を契機としてそれまでを第二部、それ以後を第三部として分けて論じよう。
半過去第一節:1920年代後半から1945年頃までのあいだ
この時期に、エピステモロジーの仕事で重要な仕事をなした人物を、以下のように挙げることができる。すなわち、上記バシュラール(Gaston Bachelard, 1884-1962)、カンギレム(Georges Canguilhem, 1904-1995)のごく初期のものに加えて、ジャン・カヴァイエス(Jean Cavaillès, 1903-1944)、アルベール・ロトマン、(Albert Lautman, 1908-1944)フェルディナン・ゴンセト(Ferdinand Gonseth, 1890-1975)、レイモン・リュイエル(Raymond Ruyer, 1902-1987)、アレクサンドル・コイレ(Alexandre Koyré, 1892-1964)、アベル・レイ(Abel Rey, 1873-1940)、エミール・メイエルソン(Emile Meyerson, 1859-1933)、レオン・ブランシュヴィック(Léon Brunschvicg, 1869-1944)、ジャン・ニコ(Jean Nicod, 1893-1924)などである。彼らのなかには、ブランシュヴィック、メイエルソン、レイなど、むしろエピステモロジーの過去に含めることになる時期と連続して仕事をしている研究者たちもいる。このことからもわかるように、エピステモロジーの特徴づけはつねに歴史編纂者の評価や認識枠組みが影響することになる。
順に見ていこう。ガストン・バシュラール(1884-1962)は、レオン・ブランシュヴィックとアベル・レイに師事し、最初に書きあげた著作でもある彼の博士論文は、『近似的認識試論』(1927年)である。また同年副論文の『物理学の問題の進展についての研究――固体における熱伝播』(未邦訳)が出版される。続く1929年には『相対性の帰納的価値』(未邦訳)と『現代化学の整合的複数主義』(未邦訳)が世に出る。ここまでで、数学(解析学)、熱力学、相対性理論、化学についてのエピステモロジーを相次いで出版することになる。ただし、この時点ではエピステモロジーの特異性は十分に発揮されてはいないともいえる。もちろん、各書の議論においてその萌芽を見出すことができる。たとえば、『近似的認識試論』においては、数学や物理学、化学における近似の手法の厳密性に応じてのみ認識の厳密性は確定されうるという議論は、認識の相対性それ自体がもつある種の客観性、構造的性格を示しているといえる。30年代に入ると、『瞬間の直観――ガストン・ルプネルの『シロエ』についての試論』(1932年)、『原子の直観――分類についての試論』(1933年)、『新しい科学的精神について』(1934年)、『持続の弁証法』(1936年)、『現代物理学における空間の経験』(1937年、未邦訳)を相次いで出版する。基本線としては、二〇世紀の初期にはじまる物理学、化学、数学、論理学の分野を横断した新しい科学が引き起こした認識枠組みの大きな変更に、哲学の古典的な議論をいかに修正するべきかということを批判的に検討するということがそこでの試みとなる。
このような試みは、当時の論理実証主義や新カント派(日本では、西田の科学哲学および田辺の科学概論以後の研究の流れに相当する)にもみられ、エピステモロジー特有とまで言うことはできないようなグローバルな研究の動向の一環として理解することもできる。大きな転機となるのは、翌1938年に出版した『科学的精神の形成――客観的認識の精神分析への貢献』と『火の精神分析』によって告げられる。これによって、新しい科学的精神を単に追認するというだけにとどまらず、客観性それ自体がいかにつくられてきたのか、あるいは客観性以前においていかにして客観性に至ることが妨げられてきたのか、その特性の歴史的分析が試みられる。ここにおいて「認識論的断絶」と「認識論的障碍」という概念装置が大々的に導入され、認識あるいはエピステーメーの歴史的地層性の分析が開始されれる。この歴史的地層性の精神分析こそが、ある意味ではエピステモロジーをエピステモロジーたらしめるところのもの(少なくともその代表的なものの一つ)であるともいえる。
以後、バシュラールのエフォートのかなりの部分がこの精神の古層の分析にあてられることになる。その結果生み出されたのが彼の一連の詩論研究である。この詩論研究は戦後においても継続されることになるが、戦前のものだけ挙げると、『ロートレアモン』(1939年)、『水と夢』(1942年)、『大気と夢』(1943年)などがある。バシュラールは、想像力のなかに、先の「認識論的障碍」を生み出す源泉を見出したともいわれており、その点でここでの詩論はエピステモロジーの根幹部分と深くかかわっていることがわかる。また先に挙げた『新しい科学的精神』の方向性を刷新し、いわゆるバシュラール哲学を展開したものとして『否定の哲学』(1940年)がある。これはとりわけ科学と相関する哲学の複数性という問題を、非ユークリッド幾何学や非古典論理などにみられる「非」の用い方との類比によって論じようとするものである。
つぎにフェルディナン・ゴンセト(1890-1975)は、スイス出身の科学認識論研究者であり、バシュラールとともに、戦後「ディアレクティカ派」と呼ばれる立場(雑誌『ディアレクティカ』(1947年創刊の国際雑誌)の初期メンバーであったバシュラールやゴンセトらを指すことでそう呼ばれた)を形成したことで知られる。彼は1926年に『数学の基礎――ユークリッド幾何学から一般相対性およびブラウアーの直観主義へ』をフランス語で公刊し、これがフランスで広く読まれることになる。彼は1919年から29年までスイスのベルン大学で数学を教え、29年から60年までチューリッヒ工科大学で科学哲学を講じたとされる。1936年には『数学と実在性――公理的方法についての試論』を出版する。続く1937年には『論理学とは何か』、39年に『数学の哲学』を出版する。この時期の39年に、後に触れるカヴァイエスと「弁証法」について雑誌上で議論した対談が残されている。ゴンセトは「イドネ主義」と呼ばれる独自の哲学を提唱し、戦後も精力的に著作を発表し続ける。カヴァイエス以前にあって、フランス語で書かれた数学の基礎にかんする基本文献の一角を形成していることは注目に値する。
レイモン・リュイエル(1902-1987)は、近年とくにジル・ドゥルーズやエリザベス・グロスによる参照によって再評価が進められているが、1930年代の当時にはそれほど目立っていたわけではないように思われる。しかし、戦後にはジルベール・シモンドンに大きな影響を与え、カンギレムとの関係などについても今後研究を進められていく必要のある人物である。1921年から24年のあいだウルム街の高等師範学校生であったリュイエルは、1930年に『構造哲学素描』という物理学の力学を主題とした科学認識論研究で博士号を取得した。同時に提出された副論文は同年『クールノーによる未来の人類』として主論文と同年に出版されている。1936年には、『意識と身体』を出版し、1938年には「心理的なものと生命的なもの」と題されたフランス哲学会の記録が出版されている。リュイエルの固有の哲学は主に戦後、とくにノーバート・ウィーナーのサイバネティクスを受容したあとに現れることになるように思われるが、リュイエルの仕事が戦前のこのような文脈のなかにあったことは注意しておく必要があるだろう。
ジャン・カヴァイエス(1903-1944)は、1903年生まれで、ブランシュヴィックに師事し、1920年代末にはアグレガシオン準備学級の復習教師として戦後活躍する多くの哲学者に影響を与えたことが知られている。また1929年のダボス会議に参加し、ハイデガーとカッシーラーの対談を目撃。その前後、ドイツでフッサール、ハイデガー、ヒルベルト、エミー・ネーターなどのところに滞在し、集合論と数学の基礎の問題で博士論文と副論文を準備する。その間、デュルケム派の社会学者の当時の重要人物であったセレスタン・ブグレによって社会文書センター(CDS)の「文書秘書官」のポストに任命された。カヴァイエスは、数学という抽象性の高い問題と同時に、ドイツ社会における青年運動の動向など非常に具体的な社会的事実についての考察も残している。この動向は彼らの上の世代であるブランシュヴィックなどの講壇的な態度からの離反を意味していたともいわれる。
彼は1937年に博士論文『公理的方法と形式主義』と副論文『抽象集合論の形成についての注解』によって博士号を取得し、それぞれ翌年に出版されている。この前後、カヴァイエスはブルバキの初期メンバーであるデュドネ、ヴェイユ、エーレスマンらと集合論について議論を行いながら、いくつかの数学と論理学にかんする論文を執筆し、ストラスブール大学の哲学教員に就任するが、直後に始まる独仏戦争に将官として参戦し、1940年6月、敗戦後捕虜となる。しかし7月末には脱出し、ストラスブール大学が再編されたクレルモン=フェランにまで退避し、教員に復帰する。そこで「南部自由」レジスタンスネットワークを立ち上げ、レジスタンス活動を活発化させる。
1941年にはパリ大学の論理学の代理講師として占領地域に戻るも、「北部自由」レジスタンスグループとの統合をはかるなど、レジスタンス活動を継続する。その後、1942年9月にナルボンヌでフランス警察に逮捕される。そこで1942年12月までサン=ポール・デジョーの収容所に収監されるも、その間に、戦後出版されることになる遺著『論理学と学知の理論について』の原稿を執筆し、12月末に脱獄を果たす。その後、1943年8月に逮捕、投獄され、拷問をうける。その後1944年の4月4日(以前は2月17日と言われていた)におそらくその名を明かすことなく処刑され、遺体はアラスで「不明No.5」として木製十字架のもとに埋められた。戦後遺体は掘り起こされ、パリソルボンヌ大学の地下納骨堂に埋葬されている。カヴァイエスのレジスタンス活動の期間中に、投獄中に書かれた『論理学と学知の理論について』は、戦後、カンギレムとエーレスマンらの尽力によって出版された(またおそらくは投獄以前に書かれたのではないかと思われる『連続体と超限無限』も戦後の1947年に出版される)。とくに『論理学と学知の理論について』のほうはカンギレムとともに、戦後の「概念の哲学」の旗印としてながく掲げられることになる。
アルベール・ロトマン(1907-1944)は、ロシアからの亡命ユダヤ人の二世であり、大学の早い段階から数学の方面でその才能を発揮した。また彼はカヴァイエスの復習教師の学生だったこともある。アグレガシオン取得後の、1930年代前半の一時期、日本の大阪外国語学校に仏語講師として滞在していた記録が残されている。博士論文は、『数学における構造と実在という用語についての試論』で、1937年に受理され、1938年に出版された。副論文は、『数理科学の現在の発展におけるその統一性についての試論』で、同じく1938年に出版された。翌1939年には、カヴァイエスが編集する叢書の一冊として『数学の弁証法的構造についての新探求』が出版される。その後、カヴァイエス同様戦役につくが、敗戦後捕虜となり、1941年に脱走。その後、レジスタンス活動に苛烈に従事し、1944年の夏にゲシュタポによって逮捕され、銃殺される。彼もまた、カヴァイエス同様ブルバキ集団と密接にかかわった哲学者であり、とりわけ彼の独創的なハイデガー解釈は、戦後のフランスの数学の哲学において重要な影響を残し続けることになる。
ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の戦前の業績については、1943年に出版された『正常と病理にかんするいくつかの問題についての試論』以外はほとんど知られていなかったが、近年、彼の全集が出版されるにいたり、徐々にその全貌が知られるようになってきた。カンギレムもカヴァイエスと同様に、上述の社会学者セレスタン・ブグレの影響下にあり、1926年には、教授資格試験の準備のために提出する論文を、ブグレの指導のもと、コントの実証主義について書いている。1936年頃までは、おもにリセの教員をしていたが、この時期に医学の勉強を改めて開始するようになる。ストラスブール大学にうつると、そこでカヴァイエスの後任を務める。1939年にはプラネとの共著で『論理学・道徳概論』を執筆し出版している。また、いわゆる『正常と病理』はこの頃からの研究の集大成である。敗戦後、カンギレムはヴィシー政権の正当性を拒否し、レジスタンス活動に参加し、カヴァイエスらのグループと合流する。『正常と病理』はこのような困難な状況のなかで書かれ、1943年に出版されたものである。カンギレムが非常に重要な位置に浮かび上がるのは、戦後になってからであり、とりわけ1956年から、バシュラールの後任として科学史科学哲学講座の教授として20年弱のあいだその立場を維持した期間においてであった。
アレクサンドル・コイレ(1892-1964)はかなり変わった経歴をもつ人物で、ロシアからの亡命者であり、十代の一時期にゲッティンゲンのヒルベルトのところにいて、フッサールとも議論したのち、1912年ごろからパリに滞在し、ベルクソン、ヴィクトール・デルボス、ブランシュヴィックらの講義に参加したようだ。その後、第一次世界大戦では、フランスのスパイとしてロシアの作戦に参加したとされる。その後1920年にフランス国籍を取得しパリに移住をはたす。1922年に『デカルトにおける神の観念とその存在証明についての試論』で博士号を取得し、高等研究実践校(EPHE)で教鞭をとる。1923年には『聖アンセルムスの哲学における神の観念について』を出版する。EPHEでは、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲルのセミナーの代理講師を務めることもあったとされる。1929年にEPHEはコイレのために「近代ヨーロッパにおける宗教思想史」講座を創設し、コジェーヴはそこで1962年まで務めた。同1929年『ヤコブ・ベーメの哲学――ドイツ形而上学の起源についての研究』と、『19世紀初頭のロシアにおける哲学と国民問題』を出版する。この時期から、1941年までカイロ大学に滞在する。カイロにいるあいだには自由フランスに参加し、その後アメリカのニュースクール大学で教鞭をとっている。著作としては、1938年には『デカルトについての三つの講義』、39年には『ガリレオ研究』を出版。1943年に『嘘についての反省』、44年に『デカルトについての対話』、45年に『プラトン読解入門』などを相次いで出版している。
戦前のコイレの仕事は、半ば神秘主義的な色彩を帯びたドイツ形而上学史の起源を探求し続けたものだとまとめることができるかもしれない。彼の科学史研究は、のちにトマス・クーンなどにも影響を与えることになるが、彼の哲学の根底にある半ば神秘主義的で秘教的な宗教的色彩は、この時期のコジェーヴとの研究と共鳴し、また当時のEPHEの周辺の雰囲気を形成していたのではないかと考えられる。彼の仕事は必ずしもエピステモロジーの中心的なモデルとはならないかもしれないが、彼の仕事が引きついでいるエミール・メイエルソンの方向性や、戦後にアメリカの科学哲学に与えることになる影響、また同時代においてもフランスのヘーゲル読解の方向性などに与えた影響など、重要な要素を担っていると言える。
ここからは少し、1920年代よりも前の世代からの連続性を担っている仕事についても見ていきたい。
アベル・レイ(1873-1940)は、エミール・ブトルーのもとで哲学を学び、エミール・ピカールとポール・タンヌリから数学と数学史をまなんだ。1896年に教授資格試験に合格。博士論文はブートルーが主査で『現代の物理学者における物理理論』を執筆する。マルセル・モースやフランソワ・シミアンらと交流を持ち、レヴィ=ブリュールの影響を受けたとされる。エピステモロジーとかかわりをもつことになるのは、1920年代に、ガストン・ミヨーの後任としてソルボンヌ大学の科学史科学哲学の教授に就任したことによる。実際、この時期に博士論文を執筆したバシュラールは、レイの指導を受けることになるうえ、そのバシュラールのソルボンヌでのポストはこのレイの後任である。そして戦後はカンギレムがこのポストを継承することになる。つまり制度的にみた場合、フランスでのエピステモロジーの実体は、後述するミヨーとレイの継承ポストにあるということになる。
レイのエピステモロジーへの貢献に注目するなら、大きく二点を挙げることができる。第一に、バシュラール以降の世代に前世代の実証主義の学問的蓄積を伝えた点を挙げることができる。レイは「絶対的実証主義」と呼ばれる実証主義の歴史の中でも特異な立場にたったが、この立場はウィーンの論理実証主義にも影響を与えたと言われる。第二に、タンヌリやミヨーによって確立された科学史を重視する科学哲学というスタイルを発展させ、バシュラール以降の基礎を確立したことである。レイはとりわけいわゆる「科学の論理」としての科学哲学(ミル、ルヌーヴィエなど)に批判的な立場をとり、科学史の分析に密着した科学哲学の重要性を主張したとされる。また科学史についても、コント以来の本来の実証主義の伝統でもあるが、社会学と密接に結びついた科学史を展開したことも重要な点であり、カヴァイエス、カンギレムらの世代が社会学と密接に結びつく流れを可能にしたともいえる。また、科学と宗教の二つの歴史的展開の並行性に注目するとともに、科学の起源としての技術に注目した点もあらためて想起される必要があるだろう。
以下では、1920年代以降の著作のみを挙げておく。『科学哲学と道徳哲学原論』を1925年に出版。ニーチェの『ツァラツストラ』を想起せる題名の『永劫回帰と物理の哲学』を1927年に出版する。これはバシュラールの著作ほどの大胆さはないものの、物理学における回帰の問題を、永劫回帰の問題と並行して論じるという複雑な構成をなしている。また1928年に『エジプト医学についての瞥見』を出版する。またアンリ・ベールが創刊した新たな百科全書的試みとしての『人類の進化』シリーズ(全百巻)のなかで、レイは、社会学者のアンリ・ユベールや、歴史学者のリュシアン・フェーブル、マルク・ブロックらとともに数多くの論考と著作を出版する計画をもったが、その一環として、『古代の科学』全五巻を執筆した。その第一巻として1930年には『ギリシア以前の東洋科学』、第二巻として1933年に『ギリシア科学の青春時代』を、1939年に第三巻として『ギリシアにおける科学的思考の成熟』を、同年に第四巻として『ギリシア科学技術の絶頂――自然の諸科学――ヒポクラテスからプラトンまでの数学』を出版した。最後の第五巻となる『ギリシア科学技術の絶頂――数学の台頭』は遺稿として1946年の戦後に出版された。この間、1935年には『五世紀中葉のギリシア数学』を出版している。「過去」の項目で取り上げることになるが、20年代以前のレイの著作は、実験心理学や物理学などより現代の科学についての議論が多い。ある意味では、ミヨーの後任となり科学技術史研究所を創設するのが、ちょうど1920年代であり、ここにひとつの隠れたエピステモロジーの起源をみることができるだろう。これまでは十分に注目をされてこなかったレイの仕事だが、近年は、Anastasios Brenner, « Réconcilier les sciences et les lettres : Le rôle de l’histoire des sciences selon Paul Tannery, Gaston Milhaud et Abel Rey », Revue d’histoire des sciences, vol. 58, no 2, 2005, p. 433-454や、Jean-François Braunstein, M. Bitbol (dir.) et J. Gayon (dir.), L’épistémologie française, 1830-1970, P.U.F., 2015, « 7. Abel Rey et les débuts de l’Institut d’histoire des sciences et des techniques (1932-1940) », p. 163-180などの研究もあり、徐々にではあるが、あるべき注目を浴び始めているように思われる。
レオン・ブランシュヴィック(1869-1944)については、「過去」の項目でより詳しく論じるため、ここでは、1920年代以降の著作のみ取り上げておく。1920年代というと、ブランシュヴィックはソルボンヌ大学の助教授であり27年には教授となる。ブランシュヴィックは、そこで第二次世界大戦で敗戦し、ユダヤ人という身の上のためにフランス南部の解放地区に逃れるために職を辞すまでその教員として影響力を持ち続けた。彼の弟子には、バシュラール、カヴァイエス、カンギレム、ロトマン、メルロ=ポンティ、サルトルなど名だたる哲学者が名を連ねることになる。カヴァイエスらの世代が社会学の実証的な関心を重視していたのにたいして、ブランシュヴィックはより保守的で観念論的な立場を維持していたことで、ポール・ニザンから悪し様に言われることになるが、そのような一面的な評価によってはブランシュヴィックの仕事の全体を捉えることは困難であると言わなければならない。
ブランシュヴィックの仕事は大きく分けて、二つの傾向性に分かれるように思われる。第一に、現代哲学に関する仕事であり、これがとくにエピステモロジーとかかわりを持つ業績となる。第二に哲学史にかんする仕事であり、こちらはドイツ観念論とフランス哲学史からなる。ここではおもに1920年代以降のもののみをとりあげる。
まずは第一の仕事をとりあげよう。1921年に『自然と自由』を出版。翌1922年に『国民教育省』、同年『物理的因果性と人間の経験』を出版。1927年には『西洋哲学における認識の進歩』を、1931年には『自己認識について』、1934年に『知性の時代』、1937年に『諸観念の進化におけるピタゴラス主義の役割』、1939年に『理性と宗教』を出版した。いずれも、自然科学と歴史と哲学の交錯する地点において、現代哲学の問題を問うというのが、1912年の『数理哲学の諸段階』以来ブランシュヴィックのスタイルであったということができるだろう。
第二の仕事も1920年代から終戦までのものを取り上げておく。1923年に『スピノザと同時代人たち』を出版するが、これは1893年にアカデミーの賞を受賞した『スピノザ』の増補改訂版である。また1924年に『パスカルの天才』、1932年に『パスカル』を出版。また1937年に『デカルト』を、そして最後の著作となる『デカルトとパスカル――モンテーニュの読者たち』を1942年に出版した。必ずしもブランシュヴィックだけの影響とは言えないが、エピステモロジーのとりわけ哲学史に近い戦後の研究のなかでデカルト、パスカル、スピノザが特権的に重要であるということの淵源のひとつは確かにブランシュヴィックに見出すことができるように思われる。
エミール・メイエルソン(1859-1933)は、ポーランド出身の化学者であり、1881年からフランスに渡ったのち、第一次大戦ののち、1918年にフランスに帰化し、1933年パリで没した。生前はシオニズム運動でも知られた。メイエルソンは実証主義を批判し、実在論を擁護した実証主義の論敵として、エピステモロジーの関連文献においてしばしば議論に登場する。ここでは主に1920年代以降の著作のみをとりあげておく。『共通感覚は認識を目指すか』を1923年に、ついで『相対主義、実在の理論』を1924年に出版した。その後、『科学と量』(1924年)、『相対主義的演繹』(1925年)、『思考の道程について』(全三巻)1931年、『実在と量的物理学においける決定論――附ルイ・ドブロイ序文』1933年を出版する。ただし、メイエルソンの仕事のなかで最も参照されるのは、1908年初版、1912年第二版となる『同一性と実在性』であるだろう。
本節の最後は、アンドレ・ラランド(1867-1963)で締めくくりたい。ラランドは世代的にはブランシュヴィックの世代に属する。1920年代以前については、「過去」のラランドの項目を見てもらうとして、ここでは主に1920年代以降にのみ注目しておく。エピステモロジーの文脈においてもフランス哲学史の文脈においても重要なのは、1928年に出版された『技術的批判的哲学辞典』である。これはラランドが中心となって編纂され、フランス哲学会の協力によって書かれたものである。また同年ラランドは『価値の諸判断の心理学』、翌年1929年には『発明と実験の理論』を出版した。また、戦後になるが1948年には『理性と諸規範――原理について、および価値判断の論理についての試論』を出版している。ラランドは、実証主義の科学哲学において、とりわけ科学と道徳の共通基盤を探求する方向性を体現していたと言えるだろう。
半過去第二節:1945年から1968年頃まで
つぎに戦後の状況に移ろう。前節での重要人物だったブランシュヴィック、レイ、カヴァイエス、ロトマンらはすでに他界している。また言及していないがベルクソンもすでにいない。そしてフランスは、1940年からのヴィシー政権は倒され、ドゴール将軍の帰還によって第四共和政の樹立とともに戦後が始まる。ヴィシー政権下におけるレジスタンス活動をとおして、フランスでは共産党の影響が相対的に大きくなったことも、とりわけ戦後のエコール・ノルマルの知的状況を特徴づけることになる。まずは、戦前で言及していた人物たちの動向から確認しよう。
バシュラールは、戦争が始まる直前の1940年から戦後の1954年まで、上述のアベル・レイの後任ポストを継承し、そこで科学史・科学哲学を教え、退官して後は、そのポストをカンギレムに譲ることになる。この時期の学生には、1920年頃から1930年頃までのソルボンヌの学生が含まれる。つまり、ドゥルーズ、デリダ、フーコー、シモンドン、アルチュセール、ミシェル・セール、ジル=ガストン・グランジェ、ジュール・ヴュイユマン、そしておそらくフランソワ・ダゴニェがその世代に含まれることになる。
この時期に書かれた著作を年代順に見ていこう。『大地と意志の夢想』と『大地と休息の夢想』を1948年に出版。翌1949年には、1940年の『否定の哲学』以来9年ぶりに科学の哲学の著作として『適応合理主義』を出版する。1950年に『風景』を出版。1951年に『現代物理学の合理主義的活動』、1953年に『合理的唯物論』を出版する。退官後に再び詩論のほうに回帰し、『空間の詩学』を1957年、『夢想の詩学』を1960年に、『蠟燭の焔』を1961年に出版する。1962年に亡くなるが、遺稿として1970年に『夢みる権利』が出版される。
バシュラールの残した詩論と科学認識論の統合的な研究はいまだ十分になされているとは言えない。もちろんどちらかということであればいつの時代もバシュラールは学問的興味の対象であり続けた。しかしその真意はいまだ明らかとは言えないだろう。
ゴンセトは、すでに述べたように、戦後、バシュラールとともに国際雑誌『ディアレクティカ』を創刊し、一時期ディアレクティカ派という用語も用いられた。戦後はスイスで活躍。1945年から1955年まで『幾何学と空間の問題』をシリーズで出版(第一巻『準備的学説』、第二巻『幾何学の三つの相』、第三巻『公理論的建築』、第四巻『弁証法的総合』、第五巻『非ユークリッド幾何学』、第六感『空間の問題』)。1948年にはドイツ語で『決定論と学問論』を出版。1954年、『新スコラ的哲学と開かれた哲学――ローマ比較総合センターのインタビュー』。1960年、『形而上学と経験への開かれ』、1964年『時間の問題――探求の方法についての試論』、1975年『指示的なもの、媒介によって課された宇宙』を出版している。死後出版として、『私の哲学的日程』(1994年)、『論理学と数理哲学』(1998年)がある。全体として、非ユークリッド幾何学と相対性理論以後の物理学についての哲学的分析が、初期から一貫したゴンセトの探求対象であったように思われる。イドネ主義を含めて日本ではバシュラールによるわずかな言及を介してのみ知られるかぎりであり、戦後フランス哲学への影響も限定的ではあるが、今後の検討がまたれる。また、フランスに限られないエピステモロジーの広がりを確認するうえでも重要な存在であるだろう。
カンギレムは、『正常と病理』の出版以後、立て続けにエピステモロジー関連の論文と著作を出版していく。そして、バシュラールが1954年に退官すると、1955年に博士論文を提出し博士号を取得、翌1956年から1971年までバシュラールの後任として科学史科学哲学研究所のポストに就任し、退官までその地位についた。この間、学生として指導したものに、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、セール、バディウ、グランジェ、ヴュイユマン、シュヴァルツなど多数がいる。戦後、レジスタンスの同志であり、ストラスブール大学での前任でもあったカヴァイエスの死後、カヴァイエスの『論理学と学知の理論』(1946年)や『連続体と超限無限』(1947年)を編集し、出版し、また彼の思い出を様々な機会で講演するなどすることで、「概念の哲学」の旗振り役を果たした。実質的に戦後エピステモロジーの別名としての「概念の哲学」を確立したのはカンギレムそのひとだともいえる。ある意味で、戦後、とりわけ50年代以降のエピステモロジーにおいて、つねにカヴァイエスの影がよりそうことになるのは、カンギレムがつねに己をカヴァイエスの影によって二重化していたからだとも言いうるかもしれない。
この時期にカンギレムが執筆した主な著作には以下である。『生命の認識』(1952年)、『17,18世紀の反射概念の形成』(1955年)、ラパッサード、ウルマンらとの共著として『19世紀における発達から進化へ』(1962年)、『生物と生命にかんする科学史科学哲学研究』(1968年)。
コイレは戦後には、ニュースクールから高等実践研究所にもどるが、同時にジョン・ホプキンス大学との間の交流もつづけた。その間には、トマス・クーンらに多大な影響をあたえ、戦後の科学史研究、とりわけパラダイム論に重要な方向性を与えたことがしられている。
この時期の著作について主要なものだけとりあげておきたい。『嘘つきエピメニデス』(1947年)、『ロシアの哲学思想の歴史についての研究』(1950年)、『16世紀ドイツの神秘主義者、心霊主義者、錬金術師』(1955年)、『閉じた世界から無限な宇宙へ』(1957年)、『天文革命――コペルニクス、ケプラー、ボレリ』(1961年)、『哲学思想の歴史研究』(1961年)、『プラトン読解入門――附デカルトについての対話』(1962年)、『ニュートン研究』(1965年)、『科学思想の歴史研究』(1966年)。コイレの研究は、戦前はドイツ哲学と神秘主義の研究が中心だったが、戦後はそれからさらに神秘主義的世界観と科学的・合理的世界観のあいだを往還するような歴史研究へと拡大していく。
リュイエルは敗戦後、戦争捕虜となりオーストリアの捕虜施設で5年間抑留された。戦後、フランスに帰国したあと、1947年にナンシー大学哲学講座の教授として召命され、1972年の退官までそこにとどまることになる。とりわけ、1950年代にはノーバート・ウィーナーのサイバネティクスの重要な受容者となったこと、そしてそれがシモンドンやドゥルーズらとの関係との参照関係にあることが注目されるところである。またリュイエルは論理実証主義にたいして批判的であり、また共産主義にたいしても批判的であり、自由主義経済を擁護したことが知られている。
この時期の主要著作は以下である。『心理-生物学原論』(1946年)、『価値の世界』(1947年)、『ユートピアと諸々のユートピア』(1950年)、「現代科学による遠隔作用」『形而上学雑誌』第16巻(1951年)、『価値の哲学』(1952年)、『新目的論』、『サイバネティクスと情報の起源』(1954年)、『生物の形の発生』(1958年)、『動物、人間、象徴機能』(1964年)、『意識のパラドックスとオートマティズムの限界』(1966年)、『消費社会礼賛』(1969年)、『宗教の神、科学の神』(1970年)などがある。
ジャン=トゥサン・ドゥサンティ(1914-2002)は、コルシカ島の首都アジャクシオで生まれた。1935年にエコール・ノルマルに入学すると、カヴァイエスから数学の哲学の手ほどきを受ける。1940年の敗戦後ドゥサンティはレジスタンス活動に参加。1942年にアグレガシオンに合格し、1943年から共産党に入党した。戦後ドゥサンティはソルボンヌとエコール・ノルマルで教鞭をとり、1956年にフランス共産党を離党するまで、エコール・ノルマルの学生たちの政治的動向に強い影響を与えたことが知られる。フーコーとアルチュセールがドゥサンティの影響で共産党に近づくことになる。彼が教えた学生には、アルチュセール、フーコー、デリダ、ジャック・ランシエールなどがいる。デリダの博士論文の主査を務めたことでも知られる。彼が党を離れたあと、エコール・ノルマルで彼にかわって毛沢東主義の方向にフランス共産党に影響を与えようとして、学生に多大な影響を与えることになるのはアルチュセールであり、戦後は、バシュラール、カンギレムというある意味では非政治的なラインとは別に、このドゥサンティ、アルチュセールという極めて政治色の強いラインが存在することになる。ドゥサンティは、哲学的には、現象学と数学の哲学の相互干渉の文脈を生み出したことで評価される。この文脈は明らかに、カヴァイエスの影響下にあり、おそらくはデリダの現象学解釈にもカヴァイエス由来の影響を与えたのではないかと考えられる。
モーリス・ケイヴィングらとの共著として『反マルクス主義の不幸――モーリス・メルロ=ポンティの不幸』(1956年)、『哲学史入門』(1956年)、『現象学と実践』(のちに『現象学入門』として再版、1963年)、『数学的理念性――実変数関数論の発展にかんする認識論的研究』(1968年)、『沈黙の哲学あるいは科学哲学批判』(1975年)がある。
ルイ・アルチュセール(1918-1990)は、当時フランス領だったアルジェリアで生まれた。1939年にエコール・ノルマルに入学するも、すぐに戦争に突中。戦争に動員され捕虜となったアルチュセールは、終戦までドイツのシュレースヴィヒの戦争捕虜収容所で過ごすことになる。終戦後1945年にパリにもどるとエコール・ノルマルで弁償を再開し、1948年(ドゥルーズと同じ試験でドゥルーズは8位)のアグレガシオンを2位の成績で合格。同年フランス共産党に入党する。このとし、エコール・ノルマルのアグレガシオン準備学級の教員となり(かつてカヴァイエスが務めていたポジション)、アグレガシオンを受ける多くの将来世代の哲学者に影響を与えることになる。またいわゆる「構造主義」を可能にし、スピノザ・ルネッサンスを用意したのもアルチュセールであった。
この時期のアルチュセールの主要著作は以下である。『モンテスキュー、政治と歴史』(1959年)、『マルクスのために』(1965年)、バリバール、エスタブレ、マシュレイ、ランシエールらとの共著として『マルクスを読む』全2巻(1968年)、『レーニンと哲学』(1969年)がある。とくにマルクス読解のために彼がもちいた「認識論的切断」は、バシュラールの『科学的精神の形成』における「認識論的断絶」をいなおしたものであり、マルクスのテキスト群のなかに、マルクス以前とマルクスがマルクスになった後を切り分けることを可能にするテキスト読解法として提案され、のちのテキスト読解法に多大な影響をあたえた。
ジルベール・シモンドン(1924-1989)は、フランスの哲学者で、1944年から1948年までエコール・ノルマルに在籍し、そこでイポリット、メルロ=ポンティらの授業を受けた。シモンドンもまた、アルチュセール、ドゥルーズと同じ年のアグレガシオン合格者であり、その後、1948年から1955年まで、トゥールにあるリセ・デカルトで哲学を教えた。1955年からポワティエ大学の助手となった。1958年に博士論文を提出し、主論文は、イポリットが主査を務めた『個体化の哲学』であり、副論文はカンギレムが主査を務めた『技術的対象の存在様式』だった。博士号取得後、1960年から63年までポワティエ大学文学部で心理学を、1963年から1969年までパリの文学・人間科学部で心理学を教えた。その後、1969年から1984年まで、パリ第五大学で一般心理学を教え、アンリ・ピエロン心理学研究所を設立した。また1950年代から60年頃にかけて、リュイエルとならんでフランスにおけるサイバネティクスの受容の一翼を担ったことも注目に値する。ドゥルーズへの影響はもとより、近年ではスティグレールを震源とする技術論での読み直しが進んでおり、ユク・ホイなどの現代的方向性やエリザベス・グロスらの新しい唯物論やその批判的乗り越えの試みにたいして示唆を与えている。しかしこの時期に出版されたものは少なく以下があるだけである。『技術的対象の存在様態について』(1958年)、『個体とその心理-物理的発生』(1964年、博士種論文の後半部分に相当)。現在、博士種論文の全体が死後出版されたのち(『個体化の哲学』)、数多くの詳細な講義録が出版されており、シモンドン研究の一層の発展が期待される。
以下はまだ構成途中。執筆予定項目は以下の通り。
ミシェル・フーコー
ジル=ガストン・グランジェ
ジュール・ヴュイユマン
シュザンヌ・バシュラール
ミシェル・セール
フランソワ・ダゴニェ
ドミニック・ルクール
半過去第三節:1968年頃から2000年頃まで
カンギレム
ドゥサンティ
アルチュセール
フーコー
シモンドン
グランジェ
ヴュイユマン
セール
ダゴニェ
ルクール
ジャン・ラルジョー
アラン・バディウ
クロード・アンベール
ジャン・プティト
ジャン=ミッシェル・サランスキ
ウリヤ=ベニス・シナスール
イヴ・シュワルツ
ジャック・ブーヴレス
ジャン=フランソワ・ブラウンシュタイン
アンヌ=ファゴ・ラルジョー
ミシェル・ビットボル
過去1890年代から1910年代
ブランシュヴィック
ラランド
レイ
メイエルソン
ガストン・ミヨー
ポール・タンヌリ
アンリ・ベルクソン
アンリ・ポアンカレ
ジャン・ニコ
ルイ・クーチュラ
ピエール・デュエム
エミール・デュルケイム
エミール・ブトルー
テオデュール・リボー
大過去1800年代
オーギュスト・コント
サン=シモン
ルナン
テーヌ
ルヌヴィエ
ラヴェッソン
スペンサー
ミル
タルド
フイエ
ギュイヨー
リボー
起源
コンディヤック
トラシ
ヴォルテール
ディドロ
ダランベール
ルソー